太宰治の作品は、好きだ。しかし「走れメロス」には、違和感を感じてしまう。。それは、彼の作品の中で、ひときわ感情的で、劇的な作品であるからだ。ここで、大胆な見立てをたててみよう。
王は読者や批評家、メロスは作品、そして、友人セリヌンティウスは作者であると。
「走れメロス」を初めて読んだのは中学生の時、「あぁ、いい話だな」と思いました。高校生になると、太宰治の作品に触れるようになり、その「人となり」も知るようになりました。そうすると、太宰作品の中で、「走れメロス」って、かなり特殊で、一般向けに書かれたものなのだ、と思うようになりました。そう思えば思うほど、「走れメロス」が《読者は、こういう作風が好きなのだろう》という「売れ線」を勘ぐったものがあるように思えてならず、この作品の美しさが、頭に入ってこなくなってしまったのです。
これは、映画「君の名は。」で、多くの評論家や他のクリエーター達が、「○○と✖️✖️を合わせてやれば、売れるよね」と、悔し紛れに「後出しジャンケン」で言っているのと、似ているかもしれません。わたし自身、反省や自戒をしながら書かせていただきたいと思います。
《目次》
ここで、わたしが考えた「走れメロス」について、自由に書かせていただきたいと思います。こんな解釈しても、面白いのではないかな、と高校時代から考えているものです。
王とは誰か? セリヌンティウスは、二度絶望する
わたしが、「走れメロス」を、「売れろノベル」だと見立ててしまった時、人生や才能について、考えてみました。
王は、読者・批評家・文学賞の審査員
メロスは、作品や物語、もしくは才能
セリヌンティウスは、作者・太宰
この三者の関係は、非常に明確です。それでは、セリヌンティウス目線で、あらすじをなぞってみましょう。
セリヌンティウスは、友人のメロスが戻ってこなければ、王によって殺される。
とてもシンプルな構造です。
ここで、わたしが着目したいのは、メロスが走って戻ってこなければ、セリヌンティウスは二度絶望することになるということです。それは、友人に裏切られるという絶望、そして、「死」を迎えるという絶望です。
この二度の絶望を、先ほどの見立ての中で、解釈しますと、実にわかりやすく表現者の絶望を描いているように思えます。
作者は、作品自体が「善良」でなければ、絶望する。
作者は、その作品が「善良」では無かったが故に、読者や批評家から「殺される」。
この場合の「殺される」というのは、作者の「社会的な死」ですが、作品自体を信じ、出版・発表する表現者の絶望は、このようなものではなかろうか、と思うのです。
もちろん、その作品を作者自身が、「善良」であると信じきっていても、読者や批評家に批判を受けることもあるでしょうが、この「走れメロス」では、作品が「善良」であるかどうかよりも、その作品を信じ切る、という姿勢が、作者に必要であると、表現されているのではないか、と考えてしまうのです。
結局、王は喜んだ 短絡的な王の姿
この「走れメロス」の冒頭で、メロスは激怒します。怒りの矛先は、王です。多くの小説や作品が、過去の作品の批評から、そして当世への不満から、生まれていることを、こうした怒りという表現で表しているのではないでしょうか。
この作品において、感情の振れ幅が、唯一あるのは、王のみです。この王は、メロスの怒りをはねのけ、メロスとセリヌンティウスの友情(信じきれるか)を問い、最後には、【自分勝手】に感動します。
ここで重要なのは、セリヌンティウスやメロスの心情です。
セリヌンティウスの目線では、メロスが戻って来るということは、旧知の親友を喪うことになります。メロスが戻ってきたとしても、彼は大切なものを失います。
メロスの目線では、自分の死に向かって走るのです。
この二人の立場を慮れば、友情を試され、人間性を問われ、多くの障害を越えた上で、いずれかの「死」を迎えるという、美しい残酷さが描かれている一方で、それを、楽しみ、最後に勝手に感動する王という、短絡的な人物が描かれます。
それは、小説家に人間性を問い、作品や才能を疑い、結局、感動する読者の姿なのか、と思ってしまうのです。
最後に、王は言います。
「どうか、わたしをも仲間に入れてくれまいか」と。
こうした構造を持つ物語を、邪智暴虐の「王」である読者のわたしたちが読んでいるという、二重構造を感じてしまうのです。
これを書きながら、思ったのは、わたしは結構「走れメロス」が好きなのでは、ということでした。