オニテンの読書会

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「弱者を作り出してはいけない」と考える人たちー巨大なセカンドレイプ社会に思うことー 2017年の雑感

 今回の記事では、わたしが2017年に感じたこと書きました。

 《目次》

 

 

 

「いかに弱者になるかの時代」から、「弱者を消す時代」へ

 2014年にシンガポール国立大学で行われたカンファレンスで、オックスフォード大学の教授が、中東のテロリスト達への聞き取り調査や広報戦略の研究結果からわかったことは、彼らの言説が、「いかに弱者であるか」、「虐げられてきたか」を強調することに特徴があると言っていた。この教授の言うことには、1990年代後半の西欧社会で、環境意識の高まりの中から「弱者の言葉」が、耳目を集め、大きな影響力を持つようになったという。

 なるほど、たしかに、紛争や領土問題など、いかに弱者側に回るのかが重要なのは、昨今のニュースを見れば自明のことのように思える。しかし、日本は、昔から、弱者を大切にしてきたのではなかったか、とも考えた。判官贔屓という言葉もあるし、『平家物語』や甲子園も、、、と思ったが、そこで気が付いたのは、日本は弱者ではなく、敗者が好きであるということだった。負けはしたけど、誇り高く、強く、かつ潔い敗者が好きなのだと。

 翻って、弱者に対してはどうだろうか。SNSなどの発達によって弱者の意見が注目され、世論に影響を与えるようになった現在あるのは、「いかに弱者にさせないか」という人々の動きだ。なぜなら、弱者を作り出してしまえば、その弱者の意見は汲み取りざる得ないからだ。

 

相撲、政治、LGBT、貧困ー弱者はいないことになるー

 暴行を受けた人、誹謗中傷を受けた人、経済的貧困に陥った人、ニュースにはたくさんの不幸を背負った人たちが登場する。彼らのような社会的弱者は、たびたび非難の的になることがある。

 例えば、最近のニュースのほとんどを占める元横綱の暴行問題、なぜか被害者側の落ち度を探してはいないだろうか。その詮索で得られるものは、「だから、殴られたんだ」という、被害者感情を無視した納得しかないだろう。

 また、LGBTの問題で話題になったとんねるずの番組では、ゲイと見られる男性をホモと表現したキャラクターが久々に登場したことから、セクシャルマイノリティーの人々が、批判や傷ついた心情を吐露することになり、大きな問題となった。しかし、すぐに女装家やゲイの有名人による「擁護」がインターネットニュースに掲載され、有名な芸人が「笑いに差別感情は一切ない」とテレビ番組で言っていた。被害を受けた人々の意見をかき消すように、擁護の意見が見られるようになる。

 経済的貧困でも、同様だ。「なぜ、非正規? 」、「なぜ、その年で?」「貯金は?」と、貧困に苦しむ人に対する言葉は、辛辣だ。親の年収と学歴の問題、それによる貧困の連鎖などは無視し、本人の落ち度を探す。

 被害にあった人々や、社会的弱者の責めるこの精神は、一体なんなのだろうか。それは、「弱者などいないと思いたい」、「弱者に主導権を握られたくない」、「その結果はお前の弱さだ」、という感情の現れなのだと思う。

 こうした感情は、レイプ被害を受けた人々に対する心ない言葉にも共通するものだ。「なぜ、一人で夜道を」、「なぜ、そんな格好で」などの言葉を、被害者に浴びせるセカンドレイプと似ていないだろうか。自分の気持ちを落ち着かせるために納得できる理由を、被害者たちから探す行為に慣れてしまってはいないだろうか。

 加害者の心情を知るために、自分たちの理解しやすいようにするために、弱者の利用していないだろうか。

 

弱者はいる、ということ。 いま、自問すること。

 弱者の対義語はなんだろうか、強者だろうか。いや、一般人なのかもしれない。なぜなら、市井に生きる人々が、その弱者を消し去ろうとするからだ。弱者を消し去ろうとしても、暴力や、被害、問題は残る。一人一人の弱者を責めるのはやめて、もう少し、大きな問題と立ち向かうことはできないだろうか。「死ね」なんて汚い言葉を使わずに、生きていけないだろうか。

 2017年、いろいろなニュースがあった。たびたび、わたし自身も、弱者にたいして疑問を持ってしまうこともある。しかし、罪そのものを見つめる強さを持ちたい、とも思う。

 

 今でも、思い出すことがある。高校生のある日、幼馴染の女友達から性的暴行の被害にあったことを告白された。あの時は、頭が真っ白になって、震えるだけで、「辛かったね」としか、言えなかったけど、今の僕は、あの時の僕よりも優しいのだろうか。