オニテンの読書会

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「巻き込まれた」感についてーモブ感覚と強制的モブ化行為ー

 ときどき、青春に巻き込まれたなぁ、と思うことがあります。私の日常が、とある人々にとって非日常であり、。この主人公人格にはない、この感覚、脇役感覚、モブ感覚とも言える、不思議な感覚、みなさんもありますか?

【目次】

  今回の記事では、わたしが長年、抱いてきた感覚についてです。共感する方がいらっしゃったら嬉しいです。

とある映画の予告編

 わたしが、この感覚の存在を強く感じるきっかけとなるCMがありました。それは、映画の予告編でした。その映画は、少年野球を題材にしたもので、試合中、悩むピッチャーをキャッチャーの子が、マウンド場で励まし、大きく手を広げ、主人公の名前をさけび「ど真ん中じゃ」と叫ぶシーンでした。

 わたしは、この予告編を見たとき、その打席に立つバッターの気持ちになってしまいました。そして、「あなたの青春に、巻き込まないでぇ」と胸が苦しくなるのです。わざわざ球種まで言う必要あるの?、なんで俺のときなの?、打ったら悪者なの?、これは作戦なの?、と思ってしまうのです。

 

サプライズ演出について

 こうした感覚は、大人になっても続きました。たとえば、とある商業施設を歩いている時に、突然始まったフラッシュモブに遭遇した時です。ものすごく恥ずかしい感覚が襲ってくるのです。踊る彼らの笑顔の暴力性に、わたしは為す術べもないのです。

 結婚式の演し物だったら(知っていれば)、耐えられるのですが、日常生活の中で、いわゆる「サプライズ」に遭遇すると、胸が痛くなるのです。

 レストランで行われる、突然の誕生日サプライズ、消される電気、明るい歌声、喜びと感謝の言葉を叫ぶ声、が充満した世界に突然巻き込まれると、居てもたってもいられなくなってしまい、そっと顔を伏せるのです。

 

強制的モブ化行為

 このサプライズ演出や、過剰な青春演出を、どうして耐えられないのか、「巻きこまれてしまった」と思うのか、自省しますと、やはり、その行為を及ぶ人々が、それを見ることになる人を見て居ない、という状況に耐えられないのだと思うのです。

 多くのサプライズ演出は、「行為者」が「被行為者」に向けて、行うものであるでしょう。プロポーズであるならば、結婚を申し込む男性が「行為者」、それを受けることになる女性が「被行為者」となります。ただ、こうしたサプライズ演出する「行為者」の多くは、「傍観者」の存在を考慮に入れない、もしくは、考慮に入れた上で、それさえもある種の演出として、自覚的にサプライズを行うことになるのです。 

 この意図的な、他者に対する強制的モブ化行為が、わたしはどうしても苦手なようです。「主人公さんたち、わたしたちも、生活しているのです。慎ましやかな。」と、言いたくなってしまうのです。

 

否定したい訳ではないのです。

 ここまで、わたしの感覚について書いてきましたが、サプライズ演出自体を責めたい訳ではないのです。迷惑だ、と責める人もいるかもれないですし、そのセンスを責める人もいるかもしれません。ただ、わたしの場合は、胸が痛くなるという、「症状」をもっており、他にもこうした感覚をもっているかたが、いないのか、知りたくなり、記事を書いた次第です。わたしとしては、サプライズ演出するのも大丈夫です。密室であれば、ですが。

 わたしも、サプライズ演出をしたいなぁと思うことは、あるのですが、どうしても、わたしのような人がいるのではないか、と思い、基本的には密室で行なうことになるのです。(人生で、一回しかないですが)

 

 人のモブにされることの恐怖感や羞恥心と考えますと、それは、わたし自身に主人公であるという自負、うぬぼれや、傲慢さがあるのかもしれないと、反省する今日この頃です。

 

 みなさんは、こんな感覚はありますでしょうか?

 

 

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