オニテンの読書会

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いま、「君の名は。」に思うこと。

 「君の名は。」は大きく賛否が分かれる作品になっている。わたしは、「君の名は。」を傑作だと思う。「この世界の片隅に」や「シン・ゴジラ」とともに語り継がれるべき作品だと。その賞味期限は、短いだろうが。

 

 みなさんは、「君の名は。」を見ましたか?感想や評価については、かなり賛否が分かれていますよね。わたしとしては、「面白かった!!」というのが正直な感想です。批判する人の意見もわかります。描かれていないものが多かったという意見や「現実」について。わかりますが、描いていることに目を向けても良いのではないでしょうか。

 この記事では、「君の名は。」で描かれていることを中心に書いていきたいと思います。

 前置きですが、わたしは実際に東北地方に住んで、被災地(主に気仙沼市鹿折地区)で3年間におよぶ実地調査をしていました。そこでは、仮設住宅に住んでいる方々と交流があり、「語り」を聞く機会がありました。また、2011年の震災当時は、災害救助に関わるプロとして、実際に救助に携わりました。ですので、すこし、映画ファンやアニメファンの方々と意見が違うかもしれません。

 

記憶の風化ー残酷性を隠匿した恋物語ー

 わたしは、「君の名は。」で描かれた記憶の風化が、大きく分けて3種類あると考えています。

 ①瀧くん個人の記憶の風化 (私事と他人事)

 ②非被災地の記憶の風化 (東京と被災地)

 ③被災地の記憶の風化 (糸守の記憶)

 ①瀧くん個人の記憶の風化とは、個々人が災害を記憶しているのか、という問題になります。この作品の中では、その残酷性が顕著に表されているのです。

 まず、三葉と瀧くんの関係についてです。入れ替わるということに目がいきがちなのですが、三葉は、災害を回避するために「未来を見る、情報を得る」能力がある少女です。そして、彼女が瀧くんと入れ替わり、生活することになる東京では450km離れた所の500人程度が死んだ事件は3年後、全く話題にもならないのです。(一ヶ月近く、東京にいたのに)

 瀧くんは、「自分が気にも留めなかった、他人事だと思っていた、忘れてしまった事件の被害者に恋した少年」として表現されることになります。彼の存在と行動が、罪悪感と贖罪を原動力に動くことになると思います。

 ②非被災地の記憶の風化についてですが、①と重複している部分もあるのですが、②の記憶の風化は、社会全体による忘却です。また、災害をリアルに感じることができるか、という問題でもあると思います。非被災地の記憶の風化で問題となるのは、その災害自体が、他人事となり、災害の記憶も教訓も忘れ去られます。

 ③被災地の記憶の風化とは、劇中の糸守町の災害の記憶が風化していることです。これは、「繭五郎の大火」によって史料を失うことが挙げられます。民俗や文化に残る災害記憶の保存という問題をこの大火によって表していると考えられます。これは、その民俗が、すでにその意味を失い、形だけ残っている、いや、形だけでも残すことができている状態であり、劇中の神楽や壁画もその状態にあるのです。これは、震災において、沿岸部に三陸津波などで建てられた津波の到達地を表す石碑が、軽視されていた状況をも包含しているものであると思います。

また、②、③では、後述する距離と時間の問題が伴います。

 もう一つのテーマとして、新海監督とRadwimps の世界観ですが、基本的には<距離=時間>が基底にあると思います。 RADの曲では、光年と億年が混同されていたり(光年は距離、億年は時間)、新海作品では光年レベルで離れた恋愛を扱います。その時、重要とされるのが感情で、情報ではないようです。感情が情報を超えている状態です。

 そして、スマホやメールで、世界の裏側でも同時に「イマ」を共有できている現在に対して、距離によって時間差が有る(生まれている)、というのがその作品感に共有されていると思います。それを表現するために、情報機器の無効化が必要になり、三葉の神社の資料も燃えてなくなってしまっているという状態につながって、③の表現を支えています。

 

時間と距離ー同時性への疑義ー

 エビエタ・ゼルバベルは『かくれたリズム (hidden rhythms)』において、いかに時間という概念が社会性を持ちえたか、また各自のスケジュールを作り出し、交換可能な時間が生まれたかについて考察しています。エビエタの研究は、病院という閉鎖空間、そして専門職的な世界観のなかで作り上げられた所論です。

 しかし、エビエタが描いていない時間軸を新海監督は、「君の名は。」で表していると、わたしは考えています。
 それは、「手続き上の時間差」です。
 「手続き上」というのは、時に移動時間であったり、処理時間であったり、その作業そのものにかかる時間とは別に必要とされる時間、としたいと思います。
 現代社会において、移動手段や情報手段の発達により、その差は今やほとんど顕在化しない場合もあるでしょう。

 新海監督作品において「手続き上の時間差」は、「ほしのこえ」では、何光年も離れたことによる時差ですが、今回の「君の名は。」は「岐阜と東京の距離」と「災害後の3年」ということになると思います。
 彼の世界では、情報伝達手段の利便性は無効化・希薄化されやすいなぁ、という印象も受けます。

 彼の作品のなかにあるものは、現代社会における発達した情報伝達手段が産み出した同時性にたいする疑いであると思っています。

 メールを送れば、その次の瞬間には、地球の裏側でも、即座に届いてしまう、現在にたいする寓話であるとも考えられるでしょう。

 変な言い方ですが、記憶や想いを「距離」で表すという手法をもって、人の機微を表しているのです。これは、現代以外の時代では、むしろ普通の表現でしたが、携帯やパソコンの出現で、どんどん難しくなっているものだと思います。

 この状況下では、「瀧くんはなぜ、三葉さんと入れ替わった時、糸守町の災害を思い出せなかったのか。」という、素朴な疑問を導き出すと思います。


 これは、「非被災地における記憶の風化」につながるものです。
「岐阜と東京」の距離は、「地方の災害を東京という都会が忘却する時間」であるとも考えられます。東京からの距離と「450km」と「3年間」が、この作品の距離と時間になります。「シン・ゴジラ」のように、ゼロ距離・ゼロ時間で東京に災害を突きつけたのにたいして、「君の名は。」は、震災との距離と忘却の残酷性を、東京に突きつけたという点では、非常に似ているところであると思います。 

 

これからの「私たち」へ 《批判》を抱き、かの地を想え

 最も重要なことは、この作品がフィクション、SFであることです。実際には、震災や事故で亡くなった人々は生き返りませんし、災害は亡くなったことにはなりません。ただ、この作品を見て、映画館から足を踏み出した時、待っている「現実」の中で、この作品に対する《批判》、《怒り》を抱くことになるのです。

 この《批判》や《怒り》、つまり、「現実は、決してハッピーエンドになりはしない」という残酷さこそが、わたしたちが、この作品から学びとることではないのでしょうか?

 日頃、流れるニュースでは、単なる数として死者が描かれます。しかし、この「君の名は。」で描かれているように、三葉のような少女が、町の人々が、被害にあっているということを、この作品は、伝えているのではないでしょうか。

 この作品に対する《批判》を抱くことは、災害や事故を忘れまい(起こすまい)とする人間の自然な感情なのかもしれません。そして、その《批判》をも抱き締めて、この作品が「意味を失い、形だけ残る」ことのなく、長く愛される作品となることを願います。

 

 

 

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