オニテンの読書会

文化・民俗や、オススメ本の紹介、思ったことも書きます。

台湾の『君が代』ー『君が代』を歌う祖母ー

 こんにちは。台湾出身、日本在住のキャロルです。今回は、台湾における「君が代」のお話をしたいと思います。 

【目次】

 

祖母が「君が代」を歌えるか、聞いてきた

 最近、台湾にいる祖母から「日本の国歌歌えますか?私は小さい時勉強したことはあるんだけど、今すっかり忘れてしまったよ。もう一度聞きたいね。」と、言われました。

 台湾出身の祖母は小学生の頃、日本の植民地時代の教育を受けたことがありますので、たまにその時の話を私に話してくれます。

 ところが、祖母の「君が代を歌ってほしい」との、お願いに応えられることができませんでした。日本に留学しても、野球などの国際試合を鑑賞する習慣はあまりなかったので、ちゃんと日本の国歌を聞く機会がなく、「君が代」について私は曖昧な記憶しかなかったからです。

  歌詞を見てみても、

君が代は

千代に八千代に

さざれ石の

いわおとなりて

こけのむすまで

…なんとなく意味がわかるような、わからないなっていうのが最初の印象でした。

 

 これを機に、辻田真佐憲の著作『ふしぎな君が代』を読み始めました。

 

ふしぎな君が代 (幻冬舎新書)

ふしぎな君が代 (幻冬舎新書)

 

 

皆様は多分「国歌」を聞いたり歌ったりする経験がありますが、国歌はどのように国を代表する歌になるのかにつきまして、知っている人は比較的少ないでしょう。『ふしぎな君が代』は「なぜこの歌詞」、「誰が作曲」、「いつ国歌になった」、「いかに普及した」、「どのように戦争を生き延びたのか」、「なぜいまだに論争的になるのか」などの問題から発し、詳しく、かつ分かりやすい文章で「君が代」の巡る歴史を解説しました読み応えのある著作です。 

 

「君が代」形成を知る

 「君が代」が国歌になる経緯は、意外とその場しのぎのものだったようです。

 1869年英国王子アルフレッドの訪日に伴い、外交の礼儀として国歌の演奏が必要となりました。英国の国歌「God Save the Queen」に対して、それまで国歌の概念ですらなかった明治新政府は、悩んだ挙句、古歌「君が代」に目をつけます。

「君が代」は江戸時代、将軍家の元旦の儀式で使用された歌でしたが、「君」を天皇の意味でとれば、天皇の万歳を寿ぐための歌にもなるため、国歌の歌詞として提案しました。歌詞の案が受け入れた後、琵琶歌「蓬莱山」の一節を用いて、洋楽の形式で譜面を起こし、君が代の「原型」を作り出しました。

 急いで作った歌なので、歌詞とメロディーが合わない問題が後に指摘されます。この問題に対応し、宮中の雅楽の伶人に願い、新たな旋律を作りました。その後、ドイツの海軍楽教師によってアレンジを加え、現行の「君が代」が完成しました(本当に大雑把ですみません、興味のある方はぜひ『ふしぎな君が代』を読んでください!)。

ふしぎな君が代 (幻冬舎新書)

ふしぎな君が代 (幻冬舎新書)

 

 

 ちなみに、外交の場として使用された以前、古歌「君が代」もまた様々な文学作品や謡曲に登場したことがありまして、統治者の治世が長く続ける歌以外、健康長寿を願う歌、めでたい歌として捉えられました。 

 現行する「君が代」が作り出した後、別の曲や歌に変更する模索はありましたが、1893年「祝日大祭日歌詞竝楽譜」の公布によって、君が代が実質上の国歌になり、小学校でも歌えるようになりました。

 

 

台湾の「君が代少年」ー植民地支配と『国歌』ー

 第二次世界大戦の幕開けと共に、「君が代」を歌うことも、愛国の象徴として捉えられるようになりました。

 一例として、1942年に改定された『初等科国語三』の教科書に登場したた「君が代少年」の話です。

 少々長く、古い表現もありますが、全文をここで掲載します。

 

君が代少年(出典

  昭和十年四月二十一日の朝、台湾で大きな地震がありました。

  公学校の三年生であった德坤という少年は、けさも目がさめると、顔を洗ってから、うやうやしく神だなに向って、拝礼をしました。神だなには、皇大神宮の大麻がおまつりしてあるのです。それから、まもなく朝の御飯になるので、少年は、その時外へ出てゐた父を呼びに行きました。

  家を出て少し行った時、「ゴー。」と恐しい音がして、地面も、まはりの家も、ぐらぐらと動きました。「地震だ。」と、少年は思ひました。そのとたん、少年のからだの上へ、そばの建物の土角がくづれて来ました。土角といふのは、粘土を固めて作った煉瓦のやうなものです。

  父や、近所の人たちがかけつけた時、少年は、頭と足に大けがをして、道ばたに倒れてゐました。それでも父の姿を見ると、少年は、自分の苦しいことは一口もいはないで、「おかあさんは、大丈夫でせうね。」といひました。

  少年の傷は思ったよりも重く、その日の午後、かりに作られた治療所で手術を受けました。このつらい手当の最中にも、少年は、決して台湾語を口に出しませんでした。日本人は国語を使ふものだと、学校で教へられてから、徳坤は、どんなに不自由でも、国語を使ひ通して来たのです。徳坤は、しきりに学校のことをいひました。先生の名を呼びました。また、友だちの名を呼びました。

  ちゃうどそのころ、学校には、何百人といふけが人が運ばれて、先生たちは、目がまはるほどいそがしかったのですが、徳坤が重いけがをしたと聞かれて、代りあって見まひに来られました。「先生、ぼく、早くなほって、学校へ行きたいのです。」と、徳坤はいひました。「さうだ。早く元気になって、学校へ出るのですよ。」と、先生もはげますやうにいはれましたが、しかし、この重い傷ではどうなるであらうかと、先生は、徳坤がかはいさうでたまりませんでした。徳坤は、涙を流して喜びました。

  少年は、あくる日の昼ごろ、父と母と、受持の先生にまもられて、遠くの町にある医院へ送られて行きました。その夜、つかれて、うとうとしてゐた徳坤が、夜明近くなって、ばっちりと目をあけました。さうして、そばにゐた父に、「おとうさん、先生はいらっしやらないの。もう一度、先生におあひしたいなあ。」といひました。これっきり、自分は、遠いところへ行くのだと感じたのかも知れません。

  少年は、あくる日の昼ごろ、父と母と、受持の先生にまもられて、遠くの町にある医院へ送られて行きました。その夜、つかれて、うとうとしてゐた徳坤が、夜明近くなって、ばっちりと目をあけました。さうして、そばにゐた父に、「おとうさん、先生はいらっしやらないの。もう一度、先生におあひしたいなあ。」といひました。これっきり、自分は、遠いところへ行くのだと感じたのかも知れません。

  それからしばらくして、少年はいひました。「おとうさん、ぼく、君が代を歌ひます。」少年は、ちょっと目をつぶって、何か考へてゐるやうでしたが、やがて息を深く吸って、静かに歌ひだしました。「きみがよは,ちよに,やちよに」

  徳坤が心をこめて歌ふ声は、同じ病室にゐる人たちの心に、しみこむやうに聞えました。「さざれ,いしの」小さいながら、はっきりと歌はつづいて行きます。あちこちに、すすり泣きの声が起りました。

  「いはほとなりて,こけの,むすまで」終りに近くなると、声はだんだん細くなりました。でも、最後まで、りつばに歌ひ通しました。君が代を歌ひ終った徳坤は、その朝、父と、母と、人々の涙にみまもられながら、やすらかに長い眠りにつきました。

 

 明らかに皇民化政策の宣伝ですが、最後のシーンは丁寧な筆致で描かれています。上手な表現だなと思いました。これを用いた授業を、日本をはじめ、台湾、韓国、中国、シンガポール、マレーシアなど、日本の植民地支配の下の小学生が、勉強したのです。内容も、若干真実性を疑われそうな記述はありましたが、德坤少年は「詹德坤」という実在した男の子で、台湾の北西部の苗栗に住んでいまして、1935年の大震災で亡くなったことも事実でした。

 陳其澎の論考によると、1935年4月21日、震度7.1の地震によって、台湾の中部地域は3千人以上がなくなり、詹德坤もその一人でした。震災後の三日目、詹德坤は重傷して、意識不明な状態で入院した。校長が生徒たちの見舞いに来る際に、詹德坤がいきなり「君が代」を歌い出し、歌い終わらないで亡くなったという事件が発端でした。

 1936年4月23日、詹德坤少年の一周忌に、社会からの寄付によって德坤少年の等身大銅像が建立され、開幕式を行いました。その後、その小学校の生徒たちは、登校と下校の際では銅像に敬礼することが要求されました。また、命日の際には日本の僧侶を銅像の前に招いき、校長、行政、詹德坤の家族、学校の教師や生徒たちは、みんな儀礼を参加するといいます。

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 亡くなった7年後、詹德坤は愛国の模範的な「君が代少年」として日本の教科書に登場し、海を渡って知られるようになりました。

 この銅像の後日談ですが、苗栗の大学が主催したイベントで、その後の德坤少年像の行方について以下ことがわかりました。

・政治関係で、日本敗戦以降銅像は撤去されました。

・銅像は詹德坤の母と姉によって実家に持ち帰られ、重くて不便で、通行人に怖がられるため、その銅像を売ってしまいました。得たお金を使ってポンプを買い、「まるでお兄さんが家族のために水を運んでくれたような」と、詹德坤の弟が言ったそうです。

 

「君が代」を歌う祖母 

最後に、再び私の祖母の話ですが、

日本の国歌が聞きたい祖母のために、その後私は「君が代」でyoutubeで検索をかけました。歌を聞いた途端、祖母は歌詞に沿って「君が代」を歌い出しました。

「君が代」は彼女にとって、国の歌や日本を代表する歌というよりも、むしろ幼いころを思い出す一つの鍵なのでしょう。

 

 

 

 

参考文献

陳其澎. “框架” 台湾: 日治時期殖民現代性的研究 台灣文化研究学会論文集, 2003. 

三輪昭子、「現代台湾から考えた日本」、『地域社会デザイン研究』2016

2011年12月4日、「国歌少年」

 

ふしぎな君が代 (幻冬舎新書)

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運営者追記

辻田真佐憲さんの本は、運営者のタカギスグルも大好きです。彼の著作は、面白く、かつ恐いと感じさせる力があります。歴史を知ることで、今を知ることができる。その媒介になってくれるような、力のある研究家だと思います。ぜひ読んでいただきたい、と思っています。

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(自宅書斎にて、辻田氏著作を並べてみました。)

 

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