オニテンの読書会

文化・民俗や、オススメ本の紹介、思ったことも書きます。

「だから、神を信じた方が良い」の説明が、まったく納得いかなかった話。

 みなさんは、神様や仏様の存在を信じていますでしょうか?

 わたしは、特に宗教を信じてはいませんが、神様はいてもいなくてもいいなぁ、と思ったり、いた方がいいんじゃないか、と思ったりと、無神論者とも言い切れない曖昧な立場です。

 でも、毎年初詣には行きますし、墓参りもします。

 友人には、お坊さんや宗教集団の幹部、ムスリム、キリスト教徒(プロテスタント、カトリック、ハリストス)などなど、がおりまして、わたし自身も、マレーシアに1年間住んでいた時に、ムスリムの方と一緒に生活した経験があります。

 ですから、信仰している人を差別したり、バカにする気持ちはありません。信じる人もいて、信じない人もいる、そんな世界が良いのではないかなぁ、と思っています。

 

 そんなわたしが、学生時代に、お坊さんにトクトクと「だから、カミの存在を信じたほうが良い」と説明されて、まったく納得がいかなかった話を書きたいと思います。

 《目次》

 

 

 お坊さんのお話ー神様の存在を賭けてみるー

 今から10年以上前、わたしが学生時代の話です、あるお坊さん(50歳くらい)とお話する機会がありました。会話の途中、わたしが基本的には宗教を信じていないと知ると、そのお坊さんは、こんな話をしてくれました。 

神様がいるか、いないかを賭けたとき、神様が存在しているほうに賭けたほうが良いって知ってるかね。

神様が存在しないなら、神様を信じていたとしても信じていなかったとしても、天国も地獄も存在しないから死んで得るものも失うものも何も無い。
だけど、神様を信じて、神様が存在したのなら、死後に天国に行くことになり、受け取るものは無限大になる!!

だから、神様の存在する可能性がいくら低くても、いた場合に得るご利益が大きいから、いるって賭けたほうが良いんだよ。

 これを聞いたわたしは、はっきりとこう思いました。

 「神様を賭けの対象にするなんて!!」と。

 信じているとしたら、賭けの対象にするということは、卑近な自分の理解が及ぶものとして、神を認識していることになるのではないでしょうか。そこには神の持ち得るであろう無限、永遠性を前提にしているとは思えませんでした。

 絶対的で、尊敬するべき、神さまを賭けの対象にするということは、さすがにやりすぎなんじゃないの?

 合理的に説明したいというのは、わかります。しかし、神とは、そんなものが及ばないほど、強大なのでは?いや、そう思うべき存在であるのでは?

 こう、学生時代のわたしは思ったわけです。全く納得がいかない。

 信じたら、利益があるとかないとかじゃなくて、そんな損得勘定がないのほうが、信じられる神様も嬉しいのでは?と思ったわけです。

 どっちファーストなの?ということかもしれません。

 

神の賭けーパスカルの賭けー

 お坊さんが、お話ししてくれた神様の存在を賭けるという話ですが、これには、引用元があるのです。(このことは、それから5年後に気がつきました!)

 引用元は、パスカル(1623-62)の『パンセ(Pensées)』という本です。あの「人間は考える葦である」で有名なパスカルです。この本は、パスカルの死後に、生前に執筆を企てていた草稿をまとめたものになります。

 パスカルは神の存在について、いるかいないかを賭けた場合の、利益を考察しています。

パンセ (イデー選書)

パンセ (イデー選書)

 

神はあるという表のほうを取って、損得をはかってみよう。二つの場合を見積もってみよう。もし勝ったら、きみはすべてをえるのだ。負けても、何もうしないはしない。だから、ためらわず神はあるほうに賭けたまえ。(パスカル(由木康訳)『パンセ』 102−103頁) 

  もうすでに人生は進んでいる、この人生の中で、神の存在を信じるか、信じないかの問いが突き付けられる、ならば、信じるほうに賭けたほうが良い、ということです。

 

パスカルへの反論ーヴォルテール『哲学書間』ー

 パスカルのこの「神の存在への賭け」に、疑問を投げかけた著名な人物がいました。その人こそ、『寛容論』などで知られるヴォルテール(Voltaire 1694-1778)でした。

 ヴォルテールは、パスカルの賭けについて、『哲学書簡(Lettres Philosophiques )』において、こう反論します。

哲学書簡 (光文社古典新訳文庫)

哲学書簡 (光文社古典新訳文庫)

 

「神が存在するほうに賭けないのは、神が存在しないほうに賭けること」だというが、これは明らかにまちがっている。なぜなら、神の存在についてまだ疑念をもち、もっとはっきりしたことを知りたいと思っている人間は、きっと、そのどちらにも賭けないからである。

 おまけに、この断章はいささか品がなく、しかも幼稚だ。賭けとか損得といった観念は、テーマの重たさにまったくそぐわない。 (ヴォルテール(斎藤悦則訳)『哲学書簡』 268-269頁)

 

 この箇所を読んだ時に、わたしと同じように、疑問をもった人がいるとわかり、とても安心しました。やはり、ヴォルテールは、信頼できる、と思いました。

 神はいるかいないか、わからない。いないかもしれない。でも、いてほしい。そんな葛藤がある人を見ると、わたしは、安心するのかもしれません。

 

ボランティアをする僧侶の話

 わたしの大学の後輩に、いま病院や被災地でボランティアをしているお坊さん(20代後半)がいるのですが、彼に一度聞いてみたことがあります。彼は、ある宗派の総本山で3年間、世間からまったく隔絶された状況で修行していた若者でした。

 「信じたほうが良いの?」と、わたしが不躾に聞くと、

 彼は、苦笑いをしながら、

 「それは、よくわからないんですよね。」と答えてくれました。

 パスカルの言うように、賭けたほうが良いと言われて、賭けれる人って、本当に少ないのではないでしょうか。合理的に説明しても、それに乗り切れる人って、どんなことでも少ないのではないのかなぁ、と思いました。

 

 そして、なによりも、死んだら、彼に弔ってもらおう、と思いました。

 

 みなさんは、「神の存在を賭ける」という説明に納得いきますでしょうか?

 

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 (自宅の書斎にて、最近『哲学書簡』を買いました。)

 

  躓いても、向かうしかないのでしょうか。躓きながらでも、前に進もうとする人のほうが、わたしは好きなのかもしれません。猪突猛進な人よりも。