オニテンの読書会

文化・民俗や、オススメ本の紹介、思ったことも書きます。

『日本の刺青と英国王室』:転々とする文明と野蛮の視線

 皆様、「刺青」といえば、頭の中に浮かぶものはなんですか?

 

 わたしは、台湾出身ですが、来日した際に、温泉に入ることがありまして、タトゥー、刺青(いれずみ)お断りの看板に驚いたことがあります。温泉のみならず、プールでも、タトゥー・刺青をいれたお客さんにラッシュガードを着用せねばならず、なるべく模様の露出を少なくするようになどの注意事項が書かれていました。

 タトゥーに対する知識はほぼ皆無なので、最初禁止の原因は色落ちにあるのではないか、という衛生面的な問題だと思いました(常識が無さすぎてすみません)。しかし、後々に知りました、日本において、刺青はヤクザの方を連想させ、体に彫る模様は威圧感があり、怖いということで刺青の客の入浴を禁止しているということを。

【目次】

 

 

 しかし、近年では、オリンピックの開催が迫り、外国人の観光客を招致するために、タトゥー客入浴の規制緩和についての議論も盛んになってきまして、タトゥー・刺青を許可する温泉なども比較的多く増えてきました。日本の浴場でのタトゥー・刺青客の受け入れについて、ニュース報道のみならず、バラエティ番組までこの問題を取り上げました。数々の議論が飛び交わす中に、時代遅れの規制を解除すべき声がある一方、外国人のみ許可する声もあり、郷に入っては郷に従え、外国人でも日本の浴場での刺青禁止の風習に従うべきだという声もあります。

 

 このような、海外の視線を意識し、刺青に対する考えの違いは、明治期からすでに芽生えていたのです。小山騰の著作、『日本の刺青と英国皇室:明治期から第一次世界大戦まで』は、ヨーロッパ皇室内に巻き起こした「日本刺青ブーム」について描きました。

 

日本の刺青と英国王室 〔明治期から第一次世界大戦まで〕

日本の刺青と英国王室 〔明治期から第一次世界大戦まで〕

 

 

 

大ヒットした日本の刺青

 かつてヨーロッパでも刺青の風習がありましたが、いつの間に忘れ去られました。18世紀後半になると、太平洋諸島に航海したキャプテン・クックによって再び紹介され、船員たちを中心に、英国人の間に広がっていきました。そして、この刺青の流行りは平民の間にとどまらず、1870年代から20世紀の初頭に渡り、皇室関係を含める英国の上流階級の間にもブームになりました。

 その中でも、日本の刺青技術は特に好まれ、明治時代来日した王子の中にも、日本で刺青をした人もたくさんいたのです

 

 『日本の刺青と英国皇室』に基づき、刺青をした皇族の方の超簡単な関係図を書きました。(本当に大変簡略で、失礼なところすみませんでした)

 

f:id:notebookno2:20170804085555j:plain

 興味のある方はぜひ『日本の刺青と英国皇室』の第三章を参照してください。ヨーロッパ皇室の関係性は恐ろしいほど複雑でした(ヴィクトリア女王とアルバート公との間、なんと9人の子どもがいました!)、灰色の方は姻族の意味を表しています。

 

緑の星のついたエドワー七世は、英国皇室の刺青が流行りだした火付け役で、1862年中東で旅行する際に、エルサレムで十字架の刺青をしました。

 そして、エドワー七世はの弟、アフルレット(1869年来日)と、エドワー七世の息子のアルバート・ヴィクター(1881年来日)とアルバート・ジョージ二人(1881年来日)とも日本に訪ねました、刺青をしました。

 ヴィクターは舞鶴の刺青を入れ、ジョージは龍を入れました。

 

f:id:notebookno2:20170804084557j:plain

刺青を入れているジョージ王子(画像出典:http://szubkult.blog.hu/2017/03/16/kivarrt_vezetok

 

 

闇の中に咲いている牡丹

日本の刺青の良さについて、『日本の刺青と英国皇室』の中では、『原色日本刺青大鑑』の内容を引用し、以下のように述べます。

 

欧米の刺青は日本人の目から見ると壁に描かれた落書のように映る。つまり、小さな図案が、ある場合は、均斉的に配置されているが、多くの場合、乱雑に散在しているのである。そしてもう一つの差異は素地が黒か白かということだ。日本の素地は黒であり、欧米のは白である。言葉にかえていうなら夜と昼といってよい。日本人の刺青は牡丹にしても闇の中に咲いている。

(『日本の刺青と英国皇室』、p.170−171より)

 

なるほど、日本の刺青の特徴には、大面積かつ一体感のある模様で、黒をベースにしたため、色鮮やかに映えるのでしょうね。

 その中でも、特に人力車の車夫がしていた刺青が、来日した欧米人の目に触れることが多かったようです。このように、皇室、船員、来日した旅行家などを通して、日本の刺青技術は海外に知れ渡り、欧米での「ジャポニズム」風潮にささやかな貢献をしました。

 

f:id:notebookno2:20170804090900j:plain 

歌川国芳画・『通俗水滸傳豪傑百八人之一個 操刀鬼曹正』

(画像出典:http://morimiya.net/online/ukiyoe-syousai/U829.html

 

 

刺青に映された「文明」と「野蛮」

 ところが、日本の刺青が海外でブームになった時、明治政府は、刺青を禁止していました。

 山本芳美によると、江戸時代において、刺青は飛脚、火消しなどの都市下層の職人達の間に広く流行りました。幕府は刺青に対して2回の禁止令を出しましたが、厳しく取り締まることなく、職人達の間には依然と流行っていました。1869年、議員さんが「身体へ黥スルヲ禁之議」を提出しました。その話からみると、刺青を禁止すべき原因は以下の三点があります。

1.刺青は父母から与えられた体を傷つけるから

2.刺青は外国人に蔑まれるから

3.刺青で墨刑の跡を消そうとすることは、法律の妨害になってしまうから

 

 1点目と3点目の理由は、すでに江戸時代の禁止令にも見えますが、明治時代から新たに生じたのは外国人の目線を意識するところでした。(ちなみに、墨刑は1868年の際に廃止になりました!)そして、刺青以外、裸体、男女混浴、春画、立ち小便なども、文明開化の視線の下に規制の対象になりました。

 1872年(明治5)において刺青を禁じ、原則的に1948年(昭和23)の間まで禁止されました。警察は特に銭湯に目をつけ、刺青のある者を見出し、そして施術の刺青師も取り締まりの対象となりました。この時期において、刺青の名人でさえ警察に拘束され、道具を没収された経験を持っていました……

 

 ところが、政府が心配した外国人の目線は、蔑むよりも、むしろ前半に取り上げるように、好評価の声も数々ありました。

 従って、政府が禁止令を頒布する一方、日本の刺青は外国人の間あまりにも好評を受けましたので、日本人に彫る刺青は規制の対象になりましたが、外国人に彫る刺青は大目で見逃されたことになりました、という変わった暗黙のルールができました。横浜、長崎、神戸などの港町では、外国人を対象にする刺青が盛んになっていました。

 

 ここで、話を少し英国の皇室に戻りましょう。

1922年エドワード王子⭐︎(赤い線の星)が来日する際に、父、伯父そして他の親戚のように日本で刺青を入れたいですが、日本政府に断れました。

 

f:id:notebookno2:20170804085555j:plain

 

 断る原因では、日本で刺青は違法のことだということでした。

 エドワード王子は文句を言いながら、家族の日本で刺青をする伝統を断念しました。

 かといって、今まで日本で刺青をしました大叔父のアフルレット、伯父のヴィクター、及びお父さんのジョージでの時代においても、刺青は違法なことでした。

 今まで大目に見てきました刺青は、エドワードの時代になると断るようになったことは、日英関係の変化も象徴でもあります。軍事力の上昇によって、今まで断れきれなかったことが断れるようになってきました。

 

 

 刺青は個人のアイデンティティーの象徴である一方で、国、文化、進歩、野蛮などのメッセージも含まれていました。

 刺青を開放することが「ジャポニズスタイル」でしょうか?

 それとも刺青を禁止することこそ「ジャポニズスタイル」でしょうか?

 刺青をすることは時代遅れか? 禁止する方が時代遅れか?

 『日本の刺青と英国皇室』の中に論じてきた文明と野蛮、日本と西洋との関係など、現在における温泉などにタトゥー・刺青客の入浴許可の是非を思考する際に、一つのヒントになれるのではないか、と思いました…

 

 

参考文献:

日本の刺青と英国王室 〔明治期から第一次世界大戦まで〕

日本の刺青と英国王室 〔明治期から第一次世界大戦まで〕

 

山本芳美、1997、「『文身禁止令』の成立と終焉-イレズミからみた日本近代史-」、『政治学研究論集』(5)、明治大学大学院

 

 

 

読者の方を大募集しております。興味を持っていただけた方は、是非、下のボタンをポッチッと押してくださると嬉しいです!!

↓↓↓↓↓↓

↑↑↑↑↑↑