今回の記事は、日本のアニメやマンガにみる「社会的成熟」と「生理的成熟」について書いてみたいと思います。
目次です。
わたし、タカギスグル(32歳)は「エヴァンゲリオン」をリアルタイムで楽しんだ世代の人間です。とはいっても、少年時代に見るのと、大人になって見るのでは、やはり感想も大きく変わりますよね。
わたしも、新劇場版が上映されるタイミングで、地上放送版や旧劇場版を見返しました。そこで気づいたことがあるのです。それは、階段とエスカレーター(エレベーター)が、対照的に機能しているのではないか?ということでした。
アニメの中で、登場キャラクターが、エレベーターやエスカレーターに乗っているシーンが多く描かれます。そのシーンの多くが、「自分の意思と関係なく、物事が進んで行く」という内容を描いたものです。たとえば、アニメの初回などでは、車が乗る昇降機がそれにあたります。シンジが、何も知らずに、運命の歯車の中に巻き込まれて行くことを印象的に表しています。
社会的成熟と生理的成熟について
このエスカレーターなどの機械式の昇降機が描かれるシーンは、思春期に体験することになる強制的な「社会的成熟」を意味していると思います。使徒と戦うために地上に出るシーンでも、エヴァがリフト(射出機)によって運ばれていきます。これも、強制的な社会的成熟によって、さまざまな障害(使徒)と対峙しなければならないことを表しているのであると思います。
これに対して、階段が描かれるシーンでは、「自分自身で真実をみる」という行為が付加されているように思えます。「Q」での、シンジとカヲルが階段を降りるシーンがその代表例であると思いますし、「新劇場版」のポスターは、登場人物が階段に座っている様子が描かれます。これも、旧劇場版とくらべ、シンジが自分の意思で動くことを示唆しているのかなぁ、と考えてしまうのです。(深読みしすぎかもしれないですが)
ここで、社会的成熟と生理的成熟について、少し説明をしたいと思います。
「社会的成熟」とは、学校における学年や、20歳で成人を迎えるという社会制度によって、認められる成長過程です。
それに対し、「生理的成熟」は、初潮や精通、ヒゲが生えたりする、カラダの変化によって認められる成長過程です。
この社会的成熟と生理的成熟は、人によっては大きな差異があったりします。大人になってもヒゲが生えない男性もいます。そして、社会的成熟が生理的成熟を追い越してしまう場合もあります。たとえば、10歳になる前に結婚するといった慣習を持つ社会があります。
こうした社会的成熟と生理的成熟のズレは、時に、とりわけ思春期において、大きな心の負担を生み出すものです。エヴァンゲリオンにおいては、シンジは、まだ14歳であるのにもかかわらず、心理的にもパイロットしてエヴァに乗るという任務を受け入れることができないですし、肉体的にも子どもの雰囲気を残した少年として描かれます。
稲中卓球部にみる焦燥感ー童貞か、どうか、生えているか、どうかー
こうした社会的成熟と生理的成熟のズレ、そして焦燥感を表した傑作として『行け 稲中卓球部』があります。ギャグマンガですし、荒唐無稽というかカオスなマンガです。しかし、彼らの行動の多くが、社会的な成長と肉体的な成長のズレ、そしてそれによる焦燥感を描いていることは、明らかなのです!!
例えば、主要な登場キャラクターは、如何に「童貞を捨てるのか(SEXするのか)」ということに執着します。思春期の男子は、こういうものかもしれませんが、性交渉=結婚を意味しない現代の日本においては、中学高校など、それぞれの学年ごとに、潜らなければならない「性の階段」があるように描かれるのです。この階段は、自分の力で登らなくてはならないのにも関わらず、社会的な関門として機能しているのです。
それは、異性と一緒に帰る、手をつなぐ、キスをする、、、などの階段であるのです。こうした階段は、生理的なものというより、すでに社会的なものとなっているのが、現代の日本なのではないでしょうか。そして、彼らは、その「性の階段」に取り残されることの内容、努力する、もしくは「ラブコメ死ね死ね団」となって他者の進度を妨害します。
『行け 稲中卓球部』においては、一番モテる木之下が、隠毛が生えていないことをコンプレックスであったり、他のキャラクターにおいても二次性徴が、他の生徒と同じ時期に来ていないことを悩んでいたりするのです。
『行け 稲中卓球部』の素晴らしさは、この自分自身の生理的成熟と、他の生徒(みんな)が経験していく社会的成熟をあらわす「階段」のズレにあるのではないでしょうか。とくにただ、性を描いただけのギャグマンガではなく、キャラクター自身の成長(性徴)を描くということに、その特徴と、生生しさがあると思います。
この二作品は、「日本」の中学生を描いた作品です。まったく、作風の違う両者ですが、『行け 稲中卓球部』の作者である古谷実先生が、その後にシリアスな作風に移って行くのも、そして最新作『ゲレクシス』で、ギャグマンガに戻り、社会に取り残された人物たちを描くのも、こうした問題意識があるからなのではないか、と考えました。
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そして「社会的成熟」と「生理的成熟」については、ファン・ヘネップの『通過儀礼』を参考にしました。