読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

オニテンの読書会

思ったことを綴っていこうと思います。

映画「沈黙ーサイレンスー」から考えたこと。

 わたしは、「君の名は。」を観て、一度で9回泣き。「シン・ゴジラ」では、無人在来線爆弾が好きすぎて一週間で3回も観にいってしまうタイプの人間です。人生の教科書は、「ベイブ」、「マッドマックス」です。

 そんなわたしが、遠藤周作さん原作、マーティン・スコセッシ監督「沈黙ーサイレンスー」を観て感じたことを書かせていただきます。感想のレベルは、推して知るべしですよ!

 もちろん、ネタバレもします!

 映画に詳しい方は、「沈黙ーサイレンスー」について、深く考察されている方がいらっしゃいますので、そちらの方のブログもご訪問ください!

 

horrornomikata.blogspot.jp

 

それでは、わたしの「沈黙ーサイレンスー」の感想です。

 

 

目次

登場人物による信仰レベルの明確化ー寛容と篤信のはざまでー

「沈黙ーサイレンスー」の中で、登場人物の相関関係を簡易的に図略化したいとおもいます

f:id:onitenyomubook:20170302214316p:plain

 

 この作品で現れる人々は、人間の感情を端的に表したものであると考えられます。例えば、イッセー尾形さんが演じた井上筑後守であれば非キリスト教的な「理性」、「合理性」であるといえるでしょう。

 上記の表では、フェレイラとガルペを対に、モキチとキチジローを対に表記しました。もちろん、こうした図は、簡略化したものですので、おそらくガルペとモキチは近く、フェレイラとキチジローはより遠くに位置するのだと思います。

 この作品で、ロドリコは師であるフェレイラと同じように、踏み絵を踏むことになるのですが、この行為は、自分自身の信仰のために既にキリスト教を棄教した人々を死においやることを選んだガルペとは、大きな違いがあるものです。

 ガルペは、棄教することもなく、死にゆく人々を見届けることもせず、自分も海に飛び込むという最期を選びました。

 一方で、フェレイラと主人公であるロドリコは、拷問に処される人々を救うため、棄教を宣言し、踏み絵を踏むのです。

 これらの行為の違い、どちらにも「正しさ」は存在するものであると思いますが、彼らの行為の大きな違いは、他の宗教(考え方)の存在を認めるか?、そして、自分の宗教(神)には棄教するような弱きものをも許す寛容性があるのか?という問いに対する答えであると思います。

 この二つの問いは、宗教・信仰における外的な寛容度、内的な寛容度を表すものであると思います。

 モキチであれば、仏教の存在はみとめる(外的に)、神に背く行為はできない(内的に)ということになるでしょうし、キチジローの存在を描くことで、神が全てを受け入れる可能性を示唆しているようにも思えます。

 モキチとキチジローの存在は対照的です。ただ、わたしは、彼らの表したものが「信仰の篤さ」、「信仰の薄さ」ではなかったと思います。キチジローは、「人間として弱い」のですが、決して信仰を捨てることはありません。

 この二人の存在は、宗教というものを除いたところにも、人間としての強さ/弱さが存在することを示していると表しており、「宗教の信仰の篤さが、人間の強さに直結しない」という事、そして「人間として弱いもの」を神がいかに扱うのかという、問いを鮮明にしていると思うのです。

 わたし個人的には、ガルペの生き方に、性格に共感したところがありました(わたしは、キリスト教徒ではありません) 

 

 「許す」という行為の残虐性ー神になりたかった司祭の物語ー

 この作品で、ロドリコが、モキチたちに「踏み絵を踏んでいいんだ」というシーンがあります。ロドリコが、そう言うとガルペが「踏むな」と諌めます。

 このシーンが、わたしとしては、この映画のベストシーンでした。ロドリコは、踏めと言いながらも、踏み絵を踏み、十字架に唾を吐くことで生き残ったキチジローには、後に悪態をつくのです。このロドリコという人間の浅はかさこそ、この作品の素敵な部分なのでは!!と、わたしは考えているのです。

 「いいよ」っていいたかった。「許してあげる」っていいたかった。

 おそらく、ロドリコが生物的に、衝動的に感じた欲求は、こういったものであったとおもいます。この「許す(赦す)」という行為そのものは、本質的に神の代理行為であったはずのものです。ロドリコの行為は、ある意味で越権行為、ある意味で自分の思想が神と直結しているという感覚が存在していなければ為せないものであると思うのです。

 わたしは、この他人を許すという行為の残虐性、加虐性に着目したいのです。ロドリコ本人が踏み絵を踏むか、踏まないかを悩み続けます。人には、「踏め」といっていたのに!!それが、司祭であるという責務の問題であっても、自分自身の信仰の篤さであっても、踏むという行為にたいする嫌悪感は、転んだキリシタンの人々と同様のはずなのです。しかし、ロドリコ自身は、踏むという行為を拒み続け、その後に、踏み絵の上に、イエスを見るのです。そして、その答えは、「踏め」というもの。つまり、ロドリコが既に、隠れキリシタンの人々に告げたものと同じなのです。

  許す(赦す)という行為は、他者の行為を「罪」もしくは「過ち」と認めるものであり、それが他者に対する優位性を内包するものであることは、明らかであると思います。許す側、そして許される側の関係には、大きな隔たりがある、つまりは、他者であることを、強く認識する必要があるのです。

 このロドリコの心の動き、そして利他をも包含しようとする飢えた利己心こそが、彼を苦しめたものの正体出会ったのではなかろうか、と考えました。 

 

 そして、ロドリコは、踏み絵を踏み、神に「許される(赦される)」という経験をするのです。この許されるという受動的な行為は、前述したように他者の優位性を認めるものであり、他者と自分自身の差異を明確化するものでもあります。

 つまりは、神が絶対的な他者であり、その他者に「許される続ける」という運命を自覚することになります。それを表しているシーンとして、ロドリコは、踏み絵を踏んだ後にキチジローに会い、告解confessionを求められるのですが、その要求に答えることはありません。ロドリコは、他者を許すという行為を放棄し、自分自身が「許され続ける=罪を認識し続ける」人生を受け入れたのだと思うのです。

 その過程を経て、ロドリコは、罪を認識し、赦しを施すことをやめ、神を絶対的な他者として認めることで、「キチジロー」となったのであろうと考えました。

 こう考えることで、最後、ロドリコがキチジローに「一緒にいてくれてありがとう」という言葉をかける意味がわかると思います。

 この行為が意味することは、神とともにキチジローのような弱きものを救う、というある意味「傲慢な」信仰から、キチジローのような弱きものとともに神と対峙する、という姿勢に変わっていったことを意味しているようにおもいます。

 ロドリコは、「神」側にいるのではなく、「キチジロー」側に自分がいること、そしてその場所こそが、より「神」を感じることができる場と考えたのではないでしょうか。

 

おれたち「窪塚洋介」リスペクト世代!! 

 この作品を観て、本当に実感したのは、わたし(30代前半)は、窪塚洋介リスペクト世代だなぁ、という感慨でした。わたしより5〜10歳年上の方や、年下の方ですと、そんなことあるかい!とツッコんできそうですが。。。

 しかし、「池袋ウエストゲートパーク」、「GTO」、「狂気の桜」、「GO」を思春期に観たわたしからすれば、《カッコいい》、《カリスマ》という存在を顕現した人間が、「窪塚洋介」であった時代が、間違いなくあったのです。

 その、窪塚洋介さんをオーディションで選んだ、スコセッシ監督は流石!と思いました。ちなみにですが、アルコ&ピースのラジオ「オールナイト・ニッポン・ゼロ」では、窪塚洋介さんがオーディションを勝ち取ったことを祝し、《窪塚洋介のキャラを薄くしよう》というコーナーをしました(2015年5月7日)。これも、きっと窪塚洋介さんの存在の大きさの証左であると思うのです!

 あの滑稽で、弱い、キチジローを演じる窪塚洋介を観るだけでも、この作品を観る価値があったと言えるものになると思いました。

 

 

 最後に評価を、僭越ながら、表したいと思います。

 実は、わたしは、原作を読み、それによって大学の専攻を決めたタイプの人間ですので、この映画化は、とても楽しみでした。 窪塚洋介、イッセー尾形、浅野忠信、配役をみるだけで、心踊ったのですが、、、うーん。。。

 というのが、正直な感想になってしまいました。 

 

 

池袋ウエストゲートパーク DVD-BOX

池袋ウエストゲートパーク DVD-BOX

 

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

深い河 (講談社文庫)

深い河 (講談社文庫)

 

 

 

 「君の名は。」を観たときの感想をつぶやいたものです。

 

 

Ads