「本音をいう」という演出
最近考えたのですが、みなさんの周りで「本音」が重宝されすぎて、過度に攻撃的になっていることがありませんか?
現代では、本音=毒舌と捉えられているようにも思えますし、そうしたキャラの方がテレビだけでなく、実生活でも存在している現状があります。
twitterなどのSNSの世界をみても、SNS上では思ったことを自由に呟くこともできますし、多くの人が、本音を呟くために裏垢をもっていたりします。
また、実社会においても、本音をいうことが、嘘をつかない人を演じたり、人気取りのツールとなっていないか、と疑問に思うことがあります。本音を言えばいうほど、「あいつは正直」と、評価されたり、好かれたりしますよね。
「本当はね…」、「お前だけにいうけど、…」、「本音では、…」という前置きを良く使う人がいます。これも、【本音言っている僕/わたし】演出の一種でしょう。(かくいうわたしも、よく使ってしまいます。)
なぜ、本音をいうことが、良いように考えられるのか、もしくは、本音はいいたくなるのか、といえば、そこには社会には建前が必要となっているという前提があるからでしょう。
本音が重宝される社会の中で、人間関係における建前は、奥へ奥へと押しやられているようにも思えます。本来なら、家族や友人にも言えない本音が、それぞれにあるのが普通でしょう。建前があることが、そして、「言いたいことも言えない こんな世の中じゃ」という感覚がむしろ普通なのではないでしょうか。
だから、本音が輝くのです。
会社や学校では、目標を達成するために、「建前」をいうことを必要とされる役職の方がいらっしゃいます。その方達は、プロフェッショナルとして、建前をいい、建前を行為の基準とされている方々だと思います。
そうした方々が、ときに漏らす本音、それが胸を打つ、はずなのでは?と思うのですが、現実社会は、少し違うように思います。
Twitterという本音ツール
Twitterに限らずですが、本音をいうことのハードルを下げているものとしてSNSが挙げられます。昔は、穴を掘って叫んだ「王様の耳はロバの耳」も、いまでは、Twitterで「マジ、ロバなんだけど、キング」と呟かれるようになりました。
呟く内容によっては、裏垢を活用し、FacebookやInstagramでは、人格さえも変容させながら、本当の自分を演出するのが現代なのでしょうか。
しかし、いくら裏垢を使っても、その人の不満などは、インターネットの世界に漂い、多くの人に突き刺さります。
いつしか、インターネットの海には、人々の不満や本音、そして嘘が充満し、肥溜めのような状態になるのではなかろうか、とも考えてしまうのです。
建前は歌になる
本音偏重な社会のなかで、異質な発達をしたのが、Jpopではなかろうかと思います。結婚相手の年収や学歴をみながら、永遠の愛をうたう曲を聴く。なかなか、複雑なものだと思います。
本来は、アーティストの本音を表していた、音楽も、様式美や「大多数の思ってそうなこと」の中に埋没しているものが多くあるように思えるのです。
前向きな歌でも、後ろ向きな歌でも、どちらにしても「あるあるネタ」のように、作られているようにも思えてしまいます。
「せっかく、この人のファンになったのに、もっと理解できない人を蹴り落とすような曲が聞きたいなぁ」、と思うことが、わたしにはよくあります。
「本音っぽくいう」という、建前へ
こうした世の中では、「本音をいう」という演出が一般的になったように思います。批判と、本音は違いますが、あえて人を批判することが本音をいうこと、毒舌が本音であるように、受け取られがちな社会になったのだと思うのです。
ただ、そうした「本音」は過度に攻撃的になって、周囲の、そしてより広い範囲の人々を傷つけるものになってしまうのではないでしょうか。
建前も、大切にしたいなぁと思った今日この頃でした。
【以下の本は、関係ないですが、タイトルが面白そうだと思いました】

質問の「建前と本音」が読めれば転職面接は突破できる!・35才以上の中堅・ベテラン編・
- 作者: 中谷充宏
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