オニテンの読書会

文化・民俗や、オススメ本の紹介、思ったことも書きます。

江戸川乱歩『芋虫』から、『ぐちゃぐちゃと結婚』思索する読書へ① 

江戸川乱歩『芋虫』を読みました。物語のあらすじは、

時子の夫は、奇跡的に命が助かった元軍人。両手両足を失い、聞くことも話すことができず、風呂敷包みから傷痕だらけの顔だけ出したようないでたちだ。外では献身的な妻を演じながら、時子は夫を“無力な生きもの”として扱い、弄んでいた。ある夜、夫を見ているうちに、時子は秘めた暗い感情を爆発させ…。芋虫 江戸川乱歩ベストセレクション2 (角川ホラー文庫)

というもので、話の構造は、いたってシンプルですが、文章表現も美しく読まされてしまいます。この物語で、私が考えたこと、それは、女性と男性のコントラスト、そして私自身の思い出です。

 江戸川乱歩の作品を読んで強く感じたことは、《肉として女性、物としての男性》という性描写です。

 

 

 この物語では、手足を失った夫は、話すことも聞くこともできない状態です。他の物語でも、『人間椅子』では、椅子そのものになることで、男性は、女性の肉感を愉しもうするのです。

 生きるために、妻の介助を必要し、依存する夫に対し、妻が甲斐甲斐しく世話をする一方で、夫に向けた性欲を発露させていきます。ここにあるのは、肉として存在する女性が、それゆえに物としての男性を求め、物としての男性は、それゆえに女性の肉感を求めるという構図が見られます。

 私が考えたのは、なぜ、夫は目を潰された時に、井戸に身を投げることを決意したのかです。むしろ、絶対的に依存することに喜びを得るようなストーリーの展開も可能であったのではないか、というものです。それは、軍人の矜持であったかもしれません。

 私は、彼が、妻の求める自分の姿が、肉欲の対象物であることそれ以上ではないということを感じ取ったのことが原因ではないかと思います。自分の存在そのものを、妻が求めていないと感じたのではないでしょうか。

 存在を愛せるか、そして、愛は存在に付着するものなのか、そんなことを考えてしまいます。

 

 この物語を読んで、思い出した話があります。それは、私がその時付き合っていた彼女、今の妻と結婚しようと考えていた時でした。

 結婚を決意するとき、私の胸にずーっと引っかかっていた言葉があります。それは、「相手の顔が、ぐちゃぐちゃになっても愛せるか。」という、職場の先輩からの言葉でした。

 6年前、私の職務では、怪我をしている人、大きな火傷を負った人、孤独に死んでいく人々と、よく出会いました。そして、ケガで人生が変わった人々が多くいることを知りました。

 そんな職場で、既婚者の先輩に結婚について質問したとき、出てきた言葉が、「相手の顔が、ぐちゃぐちゃになっても愛せるか。」というものでした。

 綺麗事を言えば、「もちろん」だと即答できると思うのですが、「現実」を生で見ていた私は、言葉を失ったことを覚えています。

  半年間、考えました。自分は、彼女を愛せるのかどうか。その時の私の答えは、彼女の「存在」は、いま私の中に「有る」のかということでした。この存在とは、彼女がいると思っているのか、というものです。

 私と彼女は、長い間、遠距離恋愛をしていました。月に一回会えるか、というくらいの頻度でしか会えていなかったのですが、結婚をお互い考えるようになっていました。

 長く続く遠距離恋愛の中で、毎日人の死をみる職業についていた私が、考えていたのことは、「今彼女が死んでいるのか、生きているのか」という問いでした。情報伝達手段、交通手段が発達した現在においても、もし人が亡くなった場合、その死と、他者によるその死の認識は数時間の時間差があるでしょう。その時間差の中で、彼女を思うこと、彼女を愛することはいったいなんなのか、と考えたのです。

 

『芋虫』を読んで、そんなことを考え、そして思い出しました。

 

芋虫  江戸川乱歩ベストセレクション2 (角川ホラー文庫)

芋虫 江戸川乱歩ベストセレクション2 (角川ホラー文庫)

 

 

 

 

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